つづれ織りとは|京都西陣 浅田|つづれ帯

つづれ織りとは、西陣浅田綴

伝統の町 西陣

遥かな歴史が育んだ町
室町時代の中期、細川勝元の東軍と、山名宗全の西軍が、今の堀川をはさんで、今出川あたりを中心に戦いました。これが世にいう応仁の乱(1467〜77年)です。このとき、西軍が堀川の一条に陣を張ったため、西陣の名が生まれました。正式な地名としたのは足利の臣、大内義興であるといわれています。ちなみに、当時の西陣の範囲は、北は鞍馬口、南は一条、東は小川、西は千本まででした。これより先、平安時代には、織部司が大内裏の後に建設され、朝廷直営で染織美術品が作られていました。ところが、応仁の乱で織工たちは四散してしまいます。しかし、織工たは再び西陣の地に集り、織物業を再興します。桃山から江戸の初期にかけてのことです。これが現在まで続いている西陣です。
西陣織が発達した理由は、その地に元織部司があったというだけでなく、秀吉が寺之内通に、妙蓮寺、本法寺、妙覚寺、本隆寺、妙顕寺、興聖寺・・・などの寺院を集めたこと、あるいは、小川通りには、表千家、裏千家、武者小路千家のお茶の家元もあり、宮人の屋敷も多く、これらの人々や幕府諸大名もさかんに高級織物を求めた・・・ことなどがあげられます。
このような土壌があってこそ織物の最高峰といわれるつづれ織りが育成されたのです。
一糸一糸に魂を込めて
織屋建(おりやたち)というのは、まず、格子戸を開けて中に入ると、店の間が通り庭に面してあります。通り庭というのは、入口からまっすぐ裏まで通っている庭のことです。店の間には糸棚があって、かせにした糸がいっぱいあります。織屋の主人たちは、この多彩な糸の色を見て、図柄や配色を思いつくわけです。仕事の話はこの店の間ですまされます。次が内玄関で、家向きのお客さんが入れるのはここまでというのがならわしです。この内玄関と店の間の境には、店の象徴である「長のれん」が下がっていて、内玄関と台所の間には猿戸(さるど)があります。台所の次には奥の間があり、その通り庭にはお勝手、井戸、走り(流し)、おくどさん(かまど)があります。玄関または台所には、二階ヘ上がる箱段がついています。箱段というのは、階段の下の空間に引出しがついている階段のことです。奥の間に続いて中庭があり、離れが落ち間になっています。これが普通の民家とは違うところで、その落ち間が機場です。機屋が何台も据えてあって、天井には明かり取りの天窓があり、吹抜きになっています。この機場は土間にしてあります。糸が乾き過ぎないようにという工夫です。織物は、糸が乾くと織りにくいからです。格子戸のずーっと奥に西陣の機場はあるのです。

爪掻本綴帯織元 西陣浅田綴
株式会社浅田綴|京都西陣|つづれ帯/京都市上京区大宮通鞍馬口下ル東入607番地/TEL:075−432−3128

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